家族に近づくこと:シャハーダの後の人生
新改宗イスラム教徒の皆さんへ、イスラム教へようこそ。シャハーダの後も旅を続けるあなたにアッラーの報酬がありますように。あなたが導かれ、アッラーの宗教における力が与えられますように。 新改宗イスラム教徒にとって最も共通する問題の一つに、イスラム教徒になった知らせをどのように家族に届けるかということだ。 これは通常難しい課題で、人それぞれ状況が違っている。したがって、この課題に関して一つの正しい方法は…
新改宗イスラム教徒の皆さんへ、イスラム教へようこそ。シャハーダの後も旅を続けるあなたにアッラーの報酬がありますように。あなたが導かれ、アッラーの宗教における力が与えられますように。 新改宗イスラム教徒にとって最も共通する問題の一つに、イスラム教徒になった知らせをどのように家族に届けるかということだ。 これは通常難しい課題で、人それぞれ状況が違っている。したがって、この課題に関して一つの正しい方法は…
イスラム教は剣によって広まったのか? イスラム教徒ではない人々の間では、イスラム教は強制的な宣教なしでは、世界中に何百万人もの信者を擁せなかったという、共通の苦情が挙がる。以下の点は、イスラム教が剣によって広まったという虚構から遠ざかり、イスラム教の急速な普及を担った本然の真理の力であり、理性と論理である事を明確にしている。 1.イスラム教は平安を意味する。 イスラム教は、「平安」を意味する根源的…
(1)精緻性 クルアーンはその内容を反証してみなさいと挑戦している。どのようにして?人間は様々な情報資源を集めても、精霊から助けを借りたとしても、クルアーンのような本を書くことは出来ないだろうと言われている。それは1400年前に伝えられたが、誰もそれを反証することは出来ていない。何十億もの書物が書かれているが、クルアーンのような本は他に存在しない。 (2) 信憑性 クルアーンは唯一長い間流通している宗教的な聖なる書物であるが、依然として原文のままに保たれている。 クルアーンは無傷である。加えられた箇所はなく、編集されず、1400年前に完全に啓示されて以来、部分的に取り除かれた箇所もない。 (3) 超越性 クルアーンは人類に対する神の最後の啓示だ。神はモーセに律法を、ダビデに詩篇を、イエスに福音を、そして最後にムハンマド(彼らに平安あれ)にクルアーンを示された。主の最後の啓示を超える啓典は現れないだろう。 (4)明白性 クルアーンは時間と精査の試練に耐えている。誰もこの本の真実性に関して争うことはできない。クルアーンは過去の歴史について話し、それは正しいと証明されている。また予言された将来について語り、それも正しいと証明された。当時人々に知られていなかった物理現象の詳細が述べられているが、その後の科学的研究でクルアーンが完全に正しいことが確認された。 他の全ての書物は、現代の知識に合わせて改訂される必要がある。現代の発見によって、全く矛盾のない書物はクルアーンだけである。 (5) 現世と来世への道しるべ クルアーンはあなたの人生を構造化する為の最良のガイドブックだ。人間の生命と努力のあらゆる側面を含み、そのような包括的なシステムを提示する本は他にはない。クルアーンはまた死後の永遠の幸福を確保する方法を指摘している。それはまさに天国への道しるべである。 (6) 導きという神の贈り物 神はあなたを一人にはしなかった。あなたは理由があって創造された。神はなぜあなたを創造したのか、あなたから何を望むのか、そしてあなたに何を用意しているのかを教えて下さっている。ある機械を作動させようとして、その仕様書に反することをすれば、その機械は壊れるであろう。私達に関してはどうだろうか? あなたの所有者はあなたの仕様書を授けただろうか? クルアーンは成功の為に機能し、さもなければ機能しない。それは神からの治癒と慈悲である。心を満足させて魂を洗浄する。疑心を取り除き、平安をもたらす。 (7) 神と通信する為の直通便 人間は社会的な生き物だ。私たちは他の知的な人々と通信することが大好きである。クルアーンは、すべての知性の源とすべての生命の源、即ち唯一の神との通信の仕方を教えてくれる。クルアーンは、神が誰であるか、私たちは神をどのような名前で表現すれば良いか、そして、神との通信手段を私たちに伝えている。 これら7つの点はクルアーンを読む為の十分な理由ではないだろうか?
ラマダンという月は太陰歴の9カ月目に起こる。その月は預言者ムハンマド(彼に平安あれ)に、全能の神が偉大なるクルアーンの最初の節を啓示した月である。地球上の健康なイスラム教徒は、我々の創造主に近づく為に、日の出から日没まで斎戒する。全ては我々の主を悦ばせる為に家族や友人が集まる、誠実な崇拝の時である。 1.何故ラマダンは毎年違う日時に始まるのか? イスラム教徒の信仰上、我々は、太陽の動きを基準とする新暦の代わりに、月を基準とする太陰歴に従う。その結果、ラマダンの月は、斎戒をする人の場所に応じて、毎年異なる季節に起こる。例えば、ニューヨークで斎戒する人はラマダンの間に夏を経験し、オーストラリアにいるイスラム教徒は冬の間で喜びを感じるかもしれない。数回のラマダンが過ぎた後、両方の場所で完全に反対となるだろう。 ラマダンのような幸多い月が異なる季節にあたる利点の1つは、ラマダンが毎年太陰暦を通してゆっくり動くので、季節の果物と野菜を楽しむことが出来る事にある。 想像出来るように、カレンダー上の熱さがピークの月の間に斎戒するのは更に困難である。真夏の間に斎戒することは、確固とした信念で乗り越える大きな課題を引き起こすことがあり得る。 より涼しい季節に斎戒するイスラム教徒は、困難と共に斎戒する同胞の為に祈りを欠かさないように常に意識している。 2.あなたは完全に30日間飲食物なしで死ぬことはないのだろうか? ラマダンの間、イスラム教徒は実際には一カ月の間飲食物を慎んでいるのではない。確かに、そのような事をする人は誰でも死ぬだろう。ラマダンの斎戒の定義は、夜明けから夕暮れまで飲食物を絶つことを意味する。イスラム教徒は、高繊維食品や新鮮な果物や十分な水からなる典型的な栄養のある朝食を摂る為に、夜明け前に起床する。夜明けの礼拝の呼びかけであるアザーンになると、イスラム教徒は飲食を止める。 それが学校に行くか、仕事に行くかに関わらず、斎戒の日は日常生活に費やされる。一日を通して崇拝の更なる行為に従事している間、義務の礼拝を行う。ラマダンの間、実行されるあらゆる善行または崇拝行為の報酬は拡大される。 多くのイスラム教徒は、この月から得られる全ての利益を得るために、最善を尽くす。例えば、ラマダンの30日間の間に全てのクルアーンを復唱する。 3.何故イスラム教徒の子供達は斎戒するように強制されるのか? 幼いイスラム教徒の子供達は斎戒を強制されることはない。全能の神はクルアーンで仰せられた。「宗教には強制があってはならない。」(偉大なるクルアーン2:256) イスラム教において誰も強制されることはない。我々の先祖に規定されたように、斎戒は命じられた。健康で思春期の年齢に達したイスラム教徒だけは、斎戒を要求される。病人、老人、旅行者、月経中の女性、妊婦または授乳中の女性は斎戒する必要はない。 イスラムにおいて実際、それがどんな形であれ、自分自身に危害を与えることは禁じられている。それでもし斎戒で誰かが弱まったり、具合が悪くなるなら、斎戒に参加することは禁じられる。 斎戒をしていない間も、イスラム教徒はラマダンを実践する方法が幾つかある。斎戒する人々の為に食事を用意したり、貧しい人に食事を与えたり、または神への唱念に従事することは全て、イスラム教において素晴らしい行為であり、その報酬が与えられるだろう。 4.ラマダンはイスラム教徒にとって体重を減らす為の行いなのだろうか? まったく正反対である!一部のイスラム教徒はラマダンに体重が増加する。長い一日の斎戒はイフタールと呼ばれる食事で終わる為、多くのイスラム教徒は一旦日が暮れると、揚げ物の前菜とカロリーが高いデザートに誤って陥る。このような食事は、早急に弱ってしまうエネルギーになり、体重の増加の原因となる。胃腸の不調はしばしばラマダン時にピークに達して、崇拝行為に対して無気力に終わることがある。 しかし健康的なイフタールの食事を摂ろうとする多くのイスラム教徒も存在する。穀物や赤身肉や、野菜と様々な果物で、エネルギーを高めることが出来て、調子の悪い胃腸に対処する必要はなく、イスラム教徒は24時間崇拝行為の為のスタミナを蓄えることができる。 5.ラマダンの期間中に他にしてはならないことはあるだろうか? イスラム教徒は、ラマダンという聖なる月に控えなければならない事が沢山ある。斎戒中の配偶者との親密さは、斎戒中に禁じられている主要な活動の一つである。 喫煙や嘘、 噂話や陰口そして他の犯罪に従事することも厳禁である。しかし、イスラム教徒ができることは、善行と信仰を照らす他の行為に従事して創造主の喜びを得ることである。 6. 斎戒によって自分自身を拷問するのは何故であろうか? 聖なる月のラマダンは全人類ヘの祝福である。世界各地のイスラム教徒は、毎年その訪れを待ちわびて、再び過ぎ去ると悲しみで泣く。 預言者ムハンマドﷺ は述べた。 「アッラーは仰せられた。「アダムの子孫の行いの全ては、斎戒以外は自分自身の為である。斎戒はわれの為であるから、われは報酬を与えるだろう。」 つまり、全能の神は、年中彼の信者への慈悲と恵みを与えて下さる。 創造主に愛と感謝の気持ちを示す為の斎戒は、イスラム教徒が大喜びで行う行為である。 彼らは、神を喜ばせる目的で、ラマダンを迎える。ラマダンは、いかに想像しても、拷問ではない。それは唯一神に対する信仰と完全な信頼の行使である。 7.ラマダン中の日々は休日のようなのか? はい!いくつかの点で、ラマダンの期間は休日と比較することができる。全世界のイスラム教徒の家族には、家族と客をもてなす、十分な大きさの食事(イフタールと呼ばれる)がある。 すべての年齢のイスラム教徒が共に食事を分かち合い、過ぎ去ったラマダンを思うのはノスタルジックな時間だ。重要な家族問題を取り上げて、この月の間にそれらの解決方法を模索するのにもまたすばらしい時である。 感謝祭のように、準備する食糧と洗うべき食器が沢山ある。多くのイスラム教徒の家族は、みんながキッチンから出て崇拝に集中できるように、世帯の小さな家庭でさえ、みんなに手伝うように声をかける。 8.斎戒を偽ることはあるだろうか? これは、イスラム教徒が、ラマダンについて尋ねられる、最も一般的な質問の一つであり、答えははっきりと「いいえ!」であり、イスラム教徒は、私たちが神と共に24時間年中在ると信じるている。(タクワとして知られている)イスラム教徒は、常に創造主の面前であると意識している。イスラム教徒は、フルコース料理がある鍵のかかった窓のない部屋にいたとしても、一口も取ることはないだろう。 別の人間が目撃していなくても、神がご覧になっている。 イスラム教徒は、力を与え維持される御方である神に恥ずかしく思うだけでなく、神を不快にさせる事を畏れ、それは全ての時間と空間を超越する、深く根ざす愛と同じである。 誰も見ていない時に水を少し飲んだり、食べ物をつまむのは問題外である! 斎戒している間、イスラム教徒は創造主とのより深いつながりを感じている。斎戒自体は、恵まれない人々の苦しみのために、多くの拘束、自己制御、共感をイスラム教徒にもたらす。 現実の調薬として、乾燥した喉や空腹の痛みを身を以て体感できる様なものは他にはないだろう。ラマダン中の斎戒は、生活の基本的な欲求を克服するための優れた訓練であり、それにより、自分が欲望にコントロールされるのではなく、それをコントロールできるようになる。 ラマダンは、非常に華麗で特別であり、多くの非イスラム教徒もそれに引き付けられ、結束のために斎戒することを選択する。ではラマダンのすべての質問の答えが出たところで、ラマダンの1日か2日を斎戒して過ごしてみてはいかがでしょうか? スマイヤ ミーハン
アメリカのイスラーム教徒の女性は、1400年以上前にアッラー(神) より預言者ムハンマド(彼に平安あれ)へ啓示された、 純粋なイスラームを再発見している。 しかしそれは先代の文化と何も矛盾しない。 そして彼らは本質上,自らを再発見する為の生涯の課題に従事している。人間でありムイスラーム教徒の女性であるとは何を意味するのか。 頭を覆う布(ヒジャブ)を纏うことは、 彼女たちの精神性向上への重要な一部分である。 現代のイスラーム教徒と非イスラーム教徒が、一様に尋ねる最も一般的な問題は以下の通りだ。 何故イスラーム教徒の女性は頭を布で覆うのか? 答えはとても簡単だ。彼女たちはアッラーに命じられたからである。 預言者よ、あなたの妻、娘たちまた信者の女たちにも、かの女らに 長衣を纒うよう告げなさい。それで認められ易く、悩まされなくて 済むであろう。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。 (クルアーン33:59) ムスリムは、聖クルアーンに啓示されているように、かれの規範に沿って、使徒ムハンマドﷺの教えを通じて、主のみへの崇拝を人生で唯一の目的と信じる。そのようにヒジャブを纏うことは神への従順行為である。したがってそれを纏うことの主要な基礎を形成する。 イスラムとイスラーム教徒に関する一般化は今日のメディアに満ちている。ヘッドスカーフを纏ったイスラーム教徒の女性はしばしば不当な汚名を着せられる。彼女たちは一方で抑圧されていて、他方では熱狂的で原理主義者と考えられている。両者は著しく間違っていて、不正確だ。それらの描写はこれらの女性のヒジャブに対する強い感情を歪めて伝えているだけでなく、彼らの勇気とヒジャブが示す個性を認識することもできない。ヒジャブを禁止する国々さえある。 キリスト教からイスラームへの改宗者であるアミナ・アッスィルミは、ヒジャブについて尋ねられた時、次のように答えた。:私にヒジャブを付けずに外へ出かけるように頼むことは、私にとって修道女が上半身裸になるようにと頼まれるようなものだ。私は本当に驚いている、そして不思議でしょうがない。彼らはイエス(彼に平安あれ)の母であるマリア様に、髪を見せるように命じるのだろうか。 もう一方の誤解は、イスラーム教徒の女性がヒジャブを強制されているという考えだ。本当に最終的にヒジャブを身に付けると決心することは、しばしば難しいことだ。瞑想の日々と、家族または広いアメリカ社会からの否定的な結果と反応への恐れ,そして最終的に決定に達するまでに、沢山の勇気が重く必要となる。 ヒジャブの着用は非常に個人的で独自の決心だ。それはアッラーの命令の基礎を成す叡智に感謝し、アッラーのみに仕えるという願いから在る。 私にとってはヒジャブを着用するという決心に至るまでが、実際にそれを着用するより困難だった。周囲から否定的な感想を受け取ったが、ヒジャブを纏うことで得られた謙虚さの感覚が喜ばしく、皮肉にも、否定的な視線でイスラーム教徒として、キャサリン・ブロックと言うイスラムに改宗したカナダ人として特定されて、より誇りを感じた。 私にとってヒジャブは、アッラーからの贈り物だ。それはアッラーにより近くなる機会を与えてくれる。そして全く重要なことに、堂々と立って、イスラーム教徒として、メリーランドのロックヴィルのファリハ・カンとして認められる機会が与えられる。 ヒジャブは、女性をイスラームの支持者と特定すると共に、相当な責任が生じる。ヒジャブは単なる身体を覆う布ではなく、さらに重要なのは、公衆でのふるまいや行儀や言葉や外観だ。 ヘッドスカーフは外部に象徴される、内部にあるアッラーのみを崇拝するという決心の顕れであるイスラーム教徒自身または内部の道徳は外部のスカーフに意味を与える。これは全てのイスラーム教徒の女性の態度、ふるまい、服装、言葉その他から気付かされる。イスラームとイスラーム教徒に関する誤報が多い土地では、イスラーム教徒姉妹はイスラームをその真実の御光に描写する機会が与えられた。 ニュージャージー州のラトガース大学の卒業生のサバ・M・ベイグは、真剣にヒジャブを着用し始めたのが、17歳の時だった。サバは今も尚内部のヒジャブを学ぶ課程にあると感じている。最大の実感は、単に頭にスカーフを纏っていることではなく、むしろ心へのベールだった。ヒジャブは外部を覆う布以上のものだ。外部を覆うことは他の点に比べれば簡単だ。それは更にもっと謙虚さや、自己をどのように表現するかということに尽きる。 そこにイスラームへの改宗者の信念(イマ-ン)が加えられる。残念なことに、不都合な点もある。差別されたり、まるで強制されたかのように扱われる。私はアッラーの為のみにこれを纏っている、それは私が望んでいるから。それだけだ。 キャサリン・ブロックは、私がヒジャブを纏い始めてから、皆私により慎重に振舞うようになったと気が付いた。例えば罵るようなことがあれば、謝罪した。私はそれがうれしかった。ヒジャブはきちんとした正しい習慣への見込みを与えてくれた。 ヒジャブは謙虚な行為 慎み深い衣類とヒジャブは社会違反を避けるための警戒処置だ。次のクルアーンの節は、ヒジャブが女性だけに限られないことを強調している。 男の信者たちに言ってやるがいい。「(自分の係累以外の婦人に対しては)かれらの視線を低くし,貞潔を守れ。」それはかれらのために一段と清廉である。アッラーはかれらの行うことを熟知なされる。 信者の女たちに言ってやるがいい。かの女らの視線を低くし,貞淑を守れ。外に表われるものの外は,かの女らの美(や飾り)を目立たせてはならない。それからヴェイルをその胸の上に垂れなさい。自分の夫または父の外は,かの女の美(や飾り)を表わしてはならない。(クルアーン 24:30-31) ジャ-ビル・ビン・アブドゥッラーによると、彼は不注意に見知らぬ女性を熟視する男性について尋ね、使徒ﷺはこう答えた。「あなたの目を背けなさい。」(ムスリム)他の伝承では、使徒ﷺは女性を見ることを窘められたとある。使徒ﷺは二度目の一瞥は悪魔によるものだと述べた。 イスラーム教徒と非イスラーム教徒が一般的に考えているのとは逆に、ヒジャブは男性が違法な欲求を抑制するために着用されているわけではない。それは上記の節と使徒ﷺの言行に見られるように、男性自らの責任だ。むしろ女性はそれを神と自らのために纏う。イスラームは節度のある両極端の調和の宗教だ。したがって、イスラームは女性のみに社会の道徳と廉潔(れんけつ)を支持するようにとは言っていない。むしろイスラームは子供達が正しく、美しく、建設的で実践的な価値と概念で成長できる健康的な社会的環境を、男性と女性の相互が作るように努めるよう要求している。 本当に多くの女性にとってヒジャブは、男性のために自己の生活と身体をデザインするべきではないという不断の助言だ。ヒジャブを纏う前は、他の人が私のことをどう考えたかに基付いて、自分自身のことを考えていた。しばしば女の子にあることで、幸せは、他人、特に男性が自分自身をどのように見るか次第である。 自分自身への見方が変わって以来、私は自尊心を覚えた。私は他人が私を美しいと思うかどうかは重要ではないと気が付いた。私は自分自身がどれだけ美しく、アッラーが私を美しいと思って下さると考えるだけで、自身を美しいと感じる。ベイグは詳しく語った。 イスラームの慎み深さとヒジャブの概念は全体論で、男性と女性の相互を含む。最終的な目標は社会的な安定と神に悦んで頂くことである。 イスラーム教徒の女性は自身の外観と、また顕著であるが故に、印刷物やメディアで歪んだ印象で見られることがある。 したがって、固定観念は永続され、イスラーム教徒の女性は、ヒジャブの宗教的な意味に親しんでいない人達には、神秘的に見られるようである。神秘的な雰囲気は彼らの生活習慣と信念と思考の体系が純粋に調査されるまで、取り除かれることはできない。そして誰かがその事に関して、謹んでイスラーム教徒の女性または男性に接近することを恐れない日が来るまでは達成されない。したがって次の機会にイスラーム教徒を見かけたら、立ち止まって、話しかけて下さい。神がお望みであれば、まるで異世界に入ったかのように感じるだろう。溢れるほどの謙遜と、信心と勿論、慎み深いイスラームの世界へ!
この質問はイスラム教徒にとってむしろ易しいものです。実際にイスラム教は人生の全ての目的はテストであると教えています。その私たちがアッラーから受ける試練とテストはかれの啓典、聖なるクルアーンで述べられています。 覚えておくべき重要な事は、アッラーは我々に、かれに近付いたりかれが命じたことに服従するように強制はしないという事です。これは私達はいつでも自由に選択出来るという意味です。 そしてその選択に関する重要な点の一つに、アッラーはこの選択肢を選ぶべきではないということを決して明らかにしないという事です。したがって人間の人生において、悪から遠ざかり、アッラーを崇拝するという選択肢があります。同時にもちろん導きから背き、敗者になる可能性も等しくあります。アッラーが我々を保護して下さるよう祈ります。アーミーン もし誰かがアッラーを見た事があるとしたら、人々に公平な試練となり得るでしょうか?またイスラム教では次のように述べられています。もしアッラーが御自身を山に「明らかに」したなら、その山はアッラーへの畏れにより自ら砕けるでしょう。使徒の妻アーイシャが述べたように、もし誰かが、預言者(彼に平安と祝福あれ)がアッラーを見たと言ったなら、その者は嘘つきです。 テレビや新聞などで間違って放送されていますが、来世のイスラム教徒の最大の目標は、処女が踊る中でワインを飲むことではありません。来世の最大で最高の名誉は「アッラーの存在」の御前に実際に立つ機会を与えられることです。そしてこれは権威あるハディース(ムハンマド(彼に平安と祝福あれ)の教え)で描写されています。 私達は皆確実に楽園とそこに含まれる全てを望んでいますが、楽園で「アッラーに近付く」機会を与えられることは、アッラーの恩恵の中でも、最高で最大の栄誉であると見ています。私はその栄誉について考えるだけで興奮するのです。 現世でアッラーを「拝見」する事ができない理由は次のものです。しかしながら初めにこのような質問に答える際に気をつけなければならない重要な点があります。それはアッラーはこの世界では見ることも、その御声を聴くことも、匂い、感触、想像、どの感覚においてもそれらを感じることはできないという点です。 私がすでに概説したように、それは我々の自由意志による選択を妨げないというアッラーの原則に違反します。 その上、アッラーは姿や形でも、主の創造と決して比較されません。 これは、アッラーが御自身の創造物に含まれないことを意味しますし、主の創造のどれにも主の特質または力を与えません。全ての力と強さはアッラーと共にあります。そして決してかれに挑戦できる者はありません。 我々はアッラーを創造物の中には置きません。我々はアッラーの啓典の中で御自身について述べられているように、アッラーこそは,6日の間に天と地を創造して,御自らその玉座に鎮座なされる方です。 我々はアッラーが王座に座っているとも横になっているとも言いません。何故ならアッラーは御自身についてその点は何も仰せられなかったからです。イスラム教徒はアッラーに関することで、彼らに言う権利のないことは決して言わないように注意しなければなりません。それは神への冒涜です。 アッラーはかれをかれの創造物のどの部分とも比較することはないと仰せられています。主は「全て聴こえし御方、全てを見し御方、慈悲深き御方、愛しき御方、雄大なる御方」であると仰せられます。しかしかれの創造物の中に「存在する」とは決して言いません。そして主は人々にスーパーマンのような力を与えられません。ある人々はアッラーと同様の力を保持すると述べましたが、彼らは嘘つきです(例え彼らがイスラム教徒であると言ったとしても)。アッラーにはパートナーはおらず比類する存在はいません。 これをアラビア語で「ラーハウラ ワ …
イスラーム教はその真の純粋さと広大な愛と平和、従順、全能の神アッラーへの服従というメッセージと共にある一般の人々から成るチームです。