
注:神の存在を「証明する」のは、私たちの本来の目的ではない。私たちは、事実と論理に基づいた明確な陳述を提供することにのみ関心があり、そして個々が誰を信じたいのか自身で決断をすることに同じる。
何時も神の存在を信じてきた人々がいて、また彼の存在を否定してきた人々も存在する。どれだけ多くの証拠や証明が得られても、神の存在を信じない人々がいることを認識しなければならない。その理由は、創造主や万物の支持者を信じたくない人々がいるからである。
彼らはいつの日か、彼らの行いについて答えなければならないことや、彼らの存在の与え主に対する認識を拒否することを考慮したくないのであろう。
正しい信念に対する彼らの先入観を取り払うように、私たちの信念を説得しようとすることはそれほど意味のないことを知った。つまり、これは本当に神による導きの問題である。
たとえ彼らの目の前で明らかな証拠があったとしてもそれを拒否するならば、これは私たちと彼らの問題ではなく、彼らと彼らの創造主の間にあるものだ。
更に誰かに何かを「証明」するのは、私たちの仕事ではない。事実を真実として提示し、聞き手が決心する機会を与えるだけでよいのである。
単純な論理から始めよう。目の前に何かがあると、それを否定するのは難しい。修辞的な質問をすると、私たちの事例を提示する上で非常に役に立つ。
先ず質問してみよう。 「あなたの存在を証明できますか?」 「はい、もちろん可能です」
あなたは単に感覚で、見たり、聞いたり、感じたり、匂ったり、味わっているのではない。
これらのすべてがあなたの存在の一部である。しかし、私たちはイスラムにおいて、神をそのように認識しているのではない。
私たちは、彼が創造したものを見て、そして彼が物事に気遣って私たちを支えている事を知り、彼の存在を疑うことはない。
1つの方法として、誰もが理解できるシンプルで説得力のある実験を提案することがあげられる。例えば、次のように言ってください。 「 今度晴れた夜に月や星を見上げて、これを考えてみよう。
飲み物用のグラスを地面に落としたとしても、割れずに、それがアイスティーを入れた小さめの飲み物用のグラスに分散されるだろうか?もちろんそんな事が起こるわけがない。」
もう1つの例は、竜巻が廃車場を通り抜けて、古い車を突き抜けた場合に何が起こるか考えてみることだ。エンジンが稼働していて、周囲にパーツが残っていない、素敵な新しいメルセデスが残るだろうか?当然ないだろう。
または誰かが無人のファーストフードレストランについて教えてくれたら、どうだろか?
食べ物は自然に料理され、キッチンからテーブルに運ばれ、それが終わったらキッチンに戻って皿は自動に洗い流される。誰もが想像できないほど狂った考えだ。上記をすべて反映した上で、望遠鏡を使って上空の宇宙を見たり、顕微鏡で細胞を観察したりして、どうして私たちは、全ては「ビッグバン理論」や「偶然」の結果として起こったと考えるのだろうか。